物語を作る上で、読み解く力「分析力」が必要となります。
作品を1つのテーマで分析した内容を読むことで、分析力が鍛えられるシリーズ。
今回は、アニメ『クオリディアコード』をとりあげます。
テーマは「長編と短編」についてのお話。
『クオリディアコード』のあらすじ
東京湾岸上空に出現した謎の異生物アンノウン。防衛を託されたのは、特殊能力<世界>を操る東京・神奈川・千葉の高校生たち。その中でも東京都市首席・朱雀壱弥は圧倒的な力でアンノウンを追い詰めていくが、その独断専行っぷりに次席の宇多良カナリアは困り顔で…。
クオリディアコード公式サイトより引用
『クオリディアコード』の感想
ライトノベル作家・さがら総、橘公司、渡航の3人からなるユニット・Speakeasyによる原作。
先に何冊かライトノベルを出した後に、その続きをライトノベルでなくアニメでの発表となったもよう。
メディアミックスというやつ。
ちなみにアニメの内容のライトノベルも、アニメ公開後に発表してるよう。
こちらは「作画崩壊」でも有名な作品。
ラストの方の崩壊はとても酷かった。
途中からギャクの話になってしまいましたね。
私が作画崩壊に気づいたのは、絶望した壱弥がカナリアに気づくシーン。
「なんか大事なシーンなのに決まらないな…」と思っていたら、作画が崩壊してた。
作画はともかく、演出が酷いありさまといえるかな。演出崩壊。
ただストーリーを伝えるだけの、素人演出になってました。
まあ、作画が崩壊すれば、演出も崩壊するのかな?
またストーリーは、始めは面白そうな感じはあったのだが、途中からショボンって勢いが落ちた感じ。
作画崩壊は関係なしに。以下の分析にもかかってくる話だけど。
テーマもよかったんだけどな…
しかし、壱弥×千種兄と、千種兄×千種妹のキャラクターのからみはよかったですね。
個人的にはさらに発展した、からみも見たかったですけど。
いろんな意味で残念な結果になった作品です。
今回のテーマ「長編と短編」
長編と短編の違い
長編と短編の大きな違いというと、やはり作品を「思い出にできるかどうか」だろう。
単純にページ、また時間の長さが大きいと、その作品世界に触れる時間が長くなり、その世界をより長く体験し、身近なものになっていく。思い出となる。
短編の場合は、短すぎて作品世界に少し入って、すぐ出てみたいな感じで、それほどインパクトが強く残らない。ちょっと気晴らしに1日遊んだぐらいのものだろう。
また短編だと、キャラクターを説明する時間がないので、キャラクターについて視聴者が知らないままで、作品がどうしても弱くなる。仕方ないのだけど。
簡単にのべると、長編と短編にはそのような違いがある。
『クオリディアコード』は短編
クオリディアコードを見終わって「なんかガッツリ見た気がしないな~」という印象。
食事をしたけど、ぜんぜん食べた気がしない感じ。
さらにいうと、「短編」をみている感じだ。
そこそこの長さをみたのに短編?これはどういうこと?
考えてみるといくつかの点がそう感じさせていた。
いきなりクライマックス
まず話の構成がそう感じさせている。
2話ほど軽く敵とバトルした後に、巨大な敵があらわれヒロインのカナリアが大ダメージをくらい、いきなり緊迫的な状況。で、さらにカナリアが消えて、超緊迫状況。で、なんやバトルおきて世界の真実を知り、ラストバトルと。
ストーリーだけを単純にみると、いきなりクライマックス状態になっている。
話が急展開すぎて視聴者が置いてけぼりに。
なので、なんか知らないけど話が進んでいる印象をうける。
それは、短編を見ているのと同じような印象だ。
群像劇っぽい
この作品は、3つのチームがそれぞれ主人公みたいな群像劇。
一応、主人公としては壱弥なのだけど。
単純に群像劇のような形なので、それぞれの話となり、短編的になる。
また、それぞれが密接に関係するわけでもないので、パラパラした感じを受け、それがさらに短編的に感じされる。
また群像劇になると、それぞれに時間がとられ、全体ストーリーの長さはそれほど長くできない。
なので、それがより短編的に感じさせる。
キャラクターがよくわからない
この作品は、あまりキャラクターが描かれていない。
確かにどんなキャラクターかは説明されているのだけど、表面的に感じる。
回想などで少しそのキャラクターについて描かれているけど、抽象的であまり入ってこない。
また「お互いの関係性」もそのように感じる。
お互いの関係性が既に完結した状態で、お話が始まっている。
お話の始めと、終わりを比べてみても、それほど大きく関係性が変わったようにも見えない。
現実で例えると、既に仲間関係がしあがっているところのグループに、急に自分1人が入ったような感じ。視聴者はそんな感じ。もちろん、そうなると疎外感を感じる。
そのように感じられる原因として、「変化」がないのだろう。
そのキャラクターが一定で進み、あまり変化が感じられない。
通常のお話だと、時間をかけて次々と新しい出来事や人物に出会ったりして、いろんな変化や表情をみせるのだけど、そういう流れになっていないから、表面的に感じられる。
そういうのって、やはり短編のキャラクターと似てる。
短編化現象
そのようなことから、クオリディアコードは短編のように感じられる。
ある程度の長さがあるのに短編。
つまり「短編化現象」が起きたといえる。
なぜこうなったのかというと、やはりメディアミックスのせいだろう。
先にライトノベルで、前の時間のお話がされているので、アニメではあまりキャラクターの説明は省いたのだろう。クライマックスだけをアニメにした感じ。
逆にライトノベルを先に見た人は、すんなりアニメを見れるのかもしれない。
既に前置きとなる作品をみてるわけだから。
これが悪いかどうかという話でもないけど、アニメだけ見た人は、ただ短編を見せられた状態になる。なので、普通に考えると「弱い作品」となる。
さらに、今回は酷い作画崩壊や演出崩壊が起きたので、酷い状態だ。
まあ中には、キャラクターやネタとして興味をひかれ、ライトノベルをみる人もいるかもしれないけど。
このメディアミックスが成功するかどうかは、後にならないとわからないのかな。
まとめ
このようにクオリディアコードは、短編でないのに、短編になってしまうという話でした。
不思議な話ですね。
群像劇の作品だとそうなったりするのですが、クオリディアコードは正直群像劇ともいいがたい感じなので、なんともいえない作品。
とにかく物語づくりでは、「長編とは何か?短編とは何か?」をしっかり理解することは大事ですね。
違いは何か?何ができて何ができないのか?そういうことを理解することで、構成なども扱えるようになると思います。
また物語を作り始めは、「短編を作れ!」とかよくいわれますしね。
とにかく、普通の長編を描いているつもりなのに短編のように感じるなら、それは危険信号です。
しかし、クオリディアコードの作画崩壊ですが、もしかしたら狙ってわざとそうしたともいえるな…
それがセカイの本当の真実!という深い意味で考えると。
または、それがアニメセカイ(業界)の真実!と。
出典:Speakeasy・マーベラス/クオリディア製作委員会 TVアニメ『クオリディアコード』(2016年放送)
ライトノベルの紹介(Amazon kindle版)
ライトノベルを読んでから、アニメを見ることでやっと楽しめる作品だと思います。
ライトノベルが「本編」で、アニメが「劇場版」的な感じかな。
アンノウン襲来直前の日本を舞台にした前日譚。アニメの30年前
『クズと金貨のクオリディア』
アニメの1年前の物語
(天河舞姫と紫乃宮晶)
『いつか世界を救うために (1) -クオリディア・コード-』
『いつか世界を救うために (2) -クオリディア・コード-』
(朱雀壱弥とカナリア)
『そんな世界は壊してしまえ (1) ‐クオリディア・コード‐』
『そんな世界は壊してしまえ (2) ‐クオリディア・コード‐』
(千種兄妹)
『どうでもいい 世界なんて -クオリディア・コード-』
アニメのライトノベル版
『クオリディア・コード』